スペイン芸術の背景

スペイン精神の背景

 「ピレネーを越すとアフリカ」こう言ったのはナポレオンだった。まあアフリカとまでいわなくても、ヨーロッパはピレネーまでかという認識は古くからあり、これがヨーロッパにおけるスペインの文化的位置を端的に物語っている。

 事実、ピレネーを越えると、そこにはもうフランスの絹のようになめらかな田園風景はなく、峨々とした山々の連なりと荒涼とした大地、一転して殺伐とした風景が目前に現れる。この乾いた風土がスペインの人々をあのようにも激しく、情熱的に、フラメンコに、闘牛に駆りたてたのだろうか。

 ヘミングウェイのスペイン熱は、この闘牛に魅せられて以来といわれている。彼の脳裏に常に宿っていた”激烈な死”のイメージが、闘牛のうえにピックリと重なり合ったためだろう。彼は、この”激烈な死”のイメージを乾いたスペインの風土に置いてみたとき、その明るさの背後に漂う途方もない寂しさにつきあたる。そして強烈な太陽の光のうちに宿る深い影を解明すべく、ますますスペインに傾斜していった。

 彼は、スペインの内乱後、代表作になった「誰がために鐘は鳴る」の執筆を始めた。

 ごくあたりまえの人間が、崇高な理想のために、いとも簡単に死んでいくというストーリーの舞台をスペインに選んだ彼は、あくまでもスペイン内乱を自分のうちにひきこもうとしているかにみえる。この内乱には、彼と同じく、ヨーロッパの多くの知識人、文化人たちも、国際義勇兵として参加している。そして、へミングウェイの参加の動機がこれら文化人たちと違って、政治を離れ、もっと個人的なものだったにもかかわらず、世界は彼の行動を「作家の政治転向」とみなした。

 1939年、およそ100万人の生命を奪い、100万人が難民と化し、人民戦線側の20万人が処刑されるという膨大な犠牲を払ってこの内乱は終結した。その結果、スペインに生まれたものは、フランコ総統の率いる軍事独裁政権だった。

 同じく義勇軍に参加したフランスの作家マルローは「希望」を発表したが、ヘミングウェイやスペインの人々にとっては”希望”など遠い先のことに思えたに違いない。事実、フランコのファシズム時代は、つい10数年前まで続き、1975年にやっとその幕を降ろしたばかりだ。そして今やっと、スペインはその光から暗黒の影を払拭し、”希望” に向かって歩きはじめたようにみえる。

マドリレーニョ気質

 「マドリレーニョ」とはマドリッ子のことをいう。陽気なスペイン人の中でもとりわけ陽気であるうえ、とびきりの皮肉屋でもある。「マドリレーニョ」の口論好きはよく知られており、日暮れの遅い夏の夕方には、狭い路地のあちこちに椅子や縁台を持ち出し、パルデペニャという安ブドウ酒を飲みながら大声で談笑している姿が見られる。

 またスペイン人全体にもいえることだが、概して労働をきらう傾向があり、シエスタ(昼寝)が大好き。

 官庁などの堅い職場は別として、たいていの店が開くのは、9時もだいぶまわってからのこと。そしてほんの少し働いたところで、すぐまた1時から4時までの長い昼休みに入ってしまう。このとき、人々は昼食をとりにわざわざ自宅まで戻り、おまけに食後に昼寝(シエスタ)までするというのんぴリムード。

 こんな調子だから、午後の仕事が終わるのは夜もだいぶ深まった9時か10時過ぎ(スペイン人にとってはまだ宵の口かもしれないが!)になる。つまリスペインでは夜9時前の夕食はありえないということで、普はスペインタイムになれない外国人はたいへん迷惑したが、最近ではだいぶこのスペインタイムも緩和されてきている。

 このような非生産的な習慣は徐々に改めるべきだという意見は毎年のように出てくるのだが、たちまちのうちに「気持ちのいい昼寝」好きたちの猛反対にあってひっそりとたち消えになってしまう。よい習慣とも悪習ともつかぬまま、シエスタは市民の中にすっかり根をおろしているのだ。

 しみるような青空におおわれ、温暖な気候を有し、物価は安いときているうえに、人々は陽気ですこぶる気前がいい。スペインタイムに慣れてしまえば、外国人にとってはほんとうに過こしやすい街のひとつといえそうだ。

 

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